生きる目的を持つことが、生き残る唯一の道ーV・E フランクル【夜と霧】
ヴィクトール・フランクルの有名な「夜と霧」
強制収容所では「収容理由」「思想」「職能」「人種」「宗教」「性別」「健康状態」などの情報をもとに「労働者」「人体実験の検体」、そして「価値なし」などに分けられ、価値なしと判断された被収容者はガス室で処分という結果が待っていた。
たとえ「労働者」に選ばれたとしても僅かな食事と過酷な労働によって体は衰えていき、遅かれ早かれ死の道を逃れない絶望的な環境だった。
このような絶望的な環境の中でフランクルは考る。
「心の支え、つまり生きる目的を持つことが、生き残る唯一の道である」と。
フランクルは、収容所での出来事を通して、「生きる意味」を学び取ろうと決め、人間の心理について冷静な分析を行うようになった。
しかしフランクルは、どのような状況に置かれようとも「この状況をどのように受け止めるか」を選択する自由があることに気付いたのである。
この「受けとめ方を選択する自由」は、決して看守たちも奪うことができないものだと。
そして、ついに解放され、奇跡的な生還を果たした。
解放されたフランクルは自身の理論と体験をもとに数々の著書を残し、講演し、1997年にこの世を去った。
私たちは何か不幸だと思えることが起こったとき、痛みや絶望を感じたときに
「人生に何の意味があるのだろう」「こんな悲惨な状況で生きている意味があるのだろうか」「もう死にたい」などと感じてしまうことがあるかもしれない。
しかしフランクルはそういった人々に対し、次のような言葉で応えている。
われわれが人生の意味を問うのではなく、われわれ自身が人生の意味を問われているのであり、答える責任があるのだ。
さらにこうも言っている。
私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。
【人生こそが問いを出し私たちに問いを提起している】からです。【私たちは問われている存在なのです】。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。【生きること自体】、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。
つまり、私たちは私たちの置かれている状況の中で、「どのように反応するのか」「どのような態度を示すのか」を問われている。
このことはまた次のような言葉で表現されている。
私たちはさまざまなやり方で、人生を意味のあるものにできます。活動することによって、また愛することによって、そして最後に苦悩することによってです。苦悩することによってというのは、たとえ、さまざまな人生の可能性が制約を受け、行動と愛によって価値を実現することができなくなっても、そうした制約に対してどのような態度をとり、どうふるまうか、そうした制約をうけた苦悩をどう引き受けるか、こうしたすべての点で、価値を実現することがまだできるからです。
人生をどのように受け止めるのか。
置かれている状況にどう反応するのか。
これらはすべて私たちが人生に問われていることだ。
フランクルが言っているように、私たちも自分の人生を主体的に「選択」して、人生の「問い」に応えていきたいものである。